フォト・エスノグラフィー研究会

A Study of Photo ethnographic Methods in Anthropology and Sociology

フォト・エスノグラフィーとは何か

2019-09-14

フォト・エスノグラフィーとは何か

岩谷洋史

1 はじめに

 文化人類学の研究活動でデジタルカメラやデジタルビデオカメラといったデジタル技術を応用した記録機器やコンピュータを活用するということが一般的になって久しい。技術的な進展により、価格が低下するとともに、使い勝手がよくなり、決して専門家でなくても、誰でも気軽に記録することができるようになり、記録したデータもコンピュータによって管理しやすくなったということで、そうした機器へのアクセスがしやすくなっているということが大きい。
 今や、これらの機器の活用は、フィールドワークを遂行する際に、重要な技法の一つとなっており、これらを駆使できるかどうかによって調査データの収集過程だけでなく、収集したデータを分析する際の方向性も変わってくると考えられる。たとえば、写真といった視覚的な調査データをデジタルカメラを用いて大量に収集することで、それらのデータを照らし合わせながら、何度も繰り返し見ていくことによって、フィールドで見過ごされていた些細なことや同時に起こっている複数の出来事を確認することもできるだろう。また、ビデオカメラによって撮影した記録データに関しては、写真では記録できなかった人間の行為(身体動作や発話など)を把握する際には有効であるだろう。
 当然のことながら、これらの機器へのアクセスが容易になったということで、従来よりも研究成果が向上するという保証はどこにもなく、これらの機器への活用に対して過剰な期待は慎まなくてはならないが、これらの機器を利用することで、別の種類の知識形態を作り出すことが可能かどうかということについて検討してみることは必要なことではあるだろう。ここで検討したい一つの課題は、デジタルカメラを用いて収集した調査データである写真で、新たなエスノグラフィーが可能であるかどうかということである。

2 文化人類学での写真の活用

 写真を活用するという歴史は古く、近代人類学を確立したマリノフスキーの時代には、すでに写真は重要な調査ツールとなっていた。1980年代頃から写真資料自体を研究対象に据える動 きが、人類学、および関連諸分野では活発となってきており、画像資料は単なる補助的なデータではなく、文字資料には残されていない文化的な背景や画像自体の表象の特質を分析、検証する対象として注目されるようになっている。
 三浦敦はアルベール・ピエットを援用しつつ、知識形態としての写真について考察をしている。三浦によれば、アルベール・ピエットは、知識形態としての写真は、「インデックス性」(写真の図像は対象物のインデックスとなり、対象を直接表現する)、「同質性」(写真はそのフレーム内の全ての対象を同じレベルで映し出すので、意図しないものまでそこには映し出され視覚とは異なる印象を呼び起こす)、「距離性」(写真は空間的にも時間的にも視るものを対象から隔てるため、視るものは異なった画像間を行き来することができる)、「切断性」(写真は必然的に、写らなかったものを連想させる)、「特異性」(対象を一般化せず、特定の事物や人物を指示する)、「行為性」(写真家の行為によって生まれる写真は、写真家自身の行為を表現する)といった6 つの特性と結びついているということである。
 ピエットは、写真に現れた人びとの姿勢、視線の向き、人と人との空間の広さなどを検討し、人びとの行為の様態を浮き彫りにしていっているが、このような分析手法は、エスノメソドロジーにおける写真やビデオの分析を思い起こさせるものの、写真に映らなかったものに注意を払うため、エスノメソドロジー的な分析に留まらず、そのうえで、社会科学のデータとして考えるにあたっては、記録としての写真の意義を引き出すことができると指摘する[三浦 2005]。
 しかしながら、写真は単に対象を記録するためのものだけに留まらない。たとえば、フィールドワークの際に、写真をインフォーマントに示しながらインタヴューを行うと、インタヴューは円滑に行うことができる。このような知識形態としての写真は、写真誘発(photo elicitation)と呼ばれる、データ収集の一つの技法として用いられる。社会学者のハーパーはエスノグラフィカルなナラティヴとともに、写真をどのように活用するのかということを考え、自動車修理工の暗黙的な知識の分析に用いている。具体的には、インフォーマントに一連の写真を見てもらい、そこから活動の文脈に即したナラティヴを引き出すという方法をとっている[福島 2001]。
 そういう意味で、写真は何かを表現するものであり、その表現により記憶を喚起させるものである。写真は、記録する手段でもあり、別種の調査データを収集するための手段でもあるという二重の性質をもっていると言える。そういう意味で、ギアツが言うところの「厚い記述」へと至るための方法を提供すると言えよう。
 しかしながら、ここで考えようとしている写真とは、単なる資料や新たな調査データを収集するための方法を提供するものに留まるものでもない。伝統的なエスノグラフィーは調査者の調査データを再構成する過程で、最終的に文字媒体で表現する類いのものへと還元されていくが、ここではフィールドで撮影した写真をその特性を活かしつつ、写真という独特の表現形態であるメディアそのものがエスノグラフィーを中心的に構成する要素となることを目指しているのである。画面上に現れる視覚的な像を主体としたエスノグラフィーであり、それは「フォト・エスノグラフィー」と呼びうるものである。

3 「フォト・エスノグラフィー」をどう考えるか?

 あまり馴染みがあるとは思われない「フォト・エスノグラフィー」という言葉を、Googleなどの検索エンジンで検索すると、いくつもの検索結果が得られるが、たとえば、Photoethnograhy.com というWEBサイトには、次のように、簡単な定義がなされている。

Photoethnography can be considered both an applied methodology of an academic social science discipline (Visual Anthropology) as well as a form of artistic expression and social critique, akin to street photography or documentary photography.

 この言葉から、人類学の成果物であるエスノグラフィーが写真というメディアによってなされるということはわかる。しかし、ここでは、その理論的な背景がどのようなものなのかが具体的に見えてこない。
まず、このサイトのなかのギャラリーのページを見る限り、まさに「ギャラリー」という言葉で示唆されるように、陳列された写真とその解説文で構成されている。印象としては、「フォト・エスノグラフィー」というよりは、ある異文化の生活を対象とした、いかにもエスニックな写真の集合と言った方がよいように思われる。
 一方、ストリート写真やドキュメンタリー写真と同類であるならば、それぞれのジャンルの写真の対象が多くの場合、特定されることを考えると(たとえば、簡単に言ってしまえば、ストリート写真は、主に街路、公園といった公共の場所での状況を写したものであり、ドキュメンタリー写真は、出来事を写真に記録したものである)、「フォト・エスノグラフィー」での写真は、人類学分野が対象としている、あるいは、きた、従来的な他者の具体的な日常世界に関する写真ということになるだろうか。しかも、その対象を芸術的な表現でとらえるということが加わることで、写真で表現する価値が付与される。もし単純に対象がそうであるだけで「エスノグラフィー」という名称がつけられるならば、非常に疑問に感じる。
 考えるべき問題なのは、まず、写真というメディアの独特な様式である。写真はデジタル技術が進展し、静止画像としてディスプレイで像として提示できるようになった現在においても、かつてのメディアである写真がもつ表現形式を土台として提示する仕組みは変わっていない。つまり、写真とは、一つの完成体であり、一つの作品(芸術的であろうがなかろうが)として提示される可能性がある仕組みである。したがって、写真で何かを表現する際には、ギャラリー的な見せ方が優先されてしまうのではなかろうか。
 そして、もう一つは、「フォト・エスノグラフィー」を考える際に、むしろ写真の方よりも、エスノグラフィーという言葉について考える必要があるのではないか。このエスノグラフィーという言葉を安易に用いる態度はつつしむ必要があり、これがどういうものを意味するものなのかを再考してみる必要に迫られるのである。
 ここで想定している「フォト・エスノグラフィー」とは、一つの写真を提示し、それについて解説していくといったようなものでも、あるいは、いくつかの写真を集めて、陳列させるギャラリーのようなものでもない。「フォト・エスノグラフィー」とは、エスノグラフィックな研究手法を用いて、複数の静止画像が集合し、配列されたものであり、それ自体がエスノグラフィーとなる。その集合によって全体として意味をもち、それがまた一つの像をなすものである。全体を構成する写真は、資料的なもの、芸術的なもの、あるいは批評的なものかもしれないが、どのような写真だとしても、調査者のフィールドワークにおける体験で得られた、ある一定の量の写真に対して、さまざまな文脈を考慮しつつ、何らかの論理によって秩序が与えられたものなのである。そこには、科学的に分析や洞察を施すという態度とそれによる論理的な再構成が重要であると考えている。したがって、通常のエスノグラフィーを作成するのとなんら変わりないのである。

4 おわりに

 調査者がフィールドワークで観察されることを画像として定着させ、それらの画像の組み合わせ、並べることで、論理を構築するという作業は、概念化のプロセスを伴うものである。いわば、「フォト・エスノグラフィー」とは、それを視覚的に表現したものであると言えよう。そこには、写真をいかに配置するのかということが問題となってくる。ストーリー的なものにするのか、それともいくつかの写真を集めたコレクション的なものにするのか、それとも、そうでないものにするのかは、調査者が設定するテーマによるが、この再構成という作業にこそ、エスノグラフィー的な本質がある。
 さらに、それだけに留まらずに、「フォト・エスノグラフィー」における視覚化に関しては、画像のレイアウトをどうするかというデザイン的な側面も関わってくる。たとえば、広告チラシの例を挙げれば、レイアウトが重視されるが、ある対象物が写った写真を配置する際には、その対象物を最も際立たせるために中心に配置するように全体のレイアウトを考慮したり、複数の写真を配置する際には、メインとサブを明確に分け、メインをより目立たせるといったように、 写真の配置でそれを見る人への印象を変えたりすることができる。こうすることで、広告チラシは消費者への消費活動を促させるのである。このように考えるならば、画像そのものの持つ情報と、画像のレイアウトとが統合されて、ある意味合いをもつということである。「フォト・エスノグラフィー」を作成するにあたって、写真というものが内在している感覚的なものをどう扱うのかという問題がつきまとう。
 一方で、エスノグラフィーは、学問世界、フィールド、一般読者など、それを他人に伝えるということを想定して再構成していかなかなければならず、そういう意味で、元来、エスノグラフィーとは、開かれてものであるが、視覚的な像を中心に再構成する「フォト・エスノグラフィー」であれば、いっそうそのことは意識しておく必要があるだろう。なぜならば、視覚的な画像の方が文章よりも概してより多くのさまざまな立場の人たちへのアクセスを保証できるということが想像できることに加えて、視覚的な像は、先に述べたようなピエットの指摘に従えば、受け手の解釈や想起を拡大させる可能性があり、そういう意味で、完結体としてのものと捉えることはできないからである。
 エスノグラフィー的な手法、その手法をもとにしたデザイン、そして、それを受け取る様々な立場を想定できる受け手といった全体的に論じる必要があるだろう。今後、思考錯誤をへて、その方法論などを構築していかなければならない。

【参考文献】

三浦敦 2005年 「文化人類学における方法としての写真」『文化人類学研究』第6巻,pp. 21-37.
福島真人 2001年 『暗黙知の解剖―認知と社会のインター フェイス』 金子書房.
Harper, Douglas 2002 Talking about pictures: a case for photo elicitation, Visual Studies, Vol. 17, No. 1
Schwartz, Dona 1989 Visual Ethnography: Using Photography in Qualitative Research, Qualitative Sociolog, 12(2), pp.119-154.

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