スライド01

スライド02

右:名瀬市庁付近にある、鹿児島教職員組合奄美地区支部の事務所の入った建物に「日本復帰のうた」が掲げられていた。
作詞:久野藤盛 作曲:静忠義以下歌詞。一 太平洋の潮音は わが同胞の血の叫び   平和と自由をしたひつつ 起てる民族20万   烈々祈る大悲願 二 われらは日本民族の 誇りと歴史を高く持し   信託統治反対の 大スローガンの旗の下   断乎と示す鉄の意志 三 目ざす世界の大理想 民族自決独立の   われらが使命つらぬきて 奄美の幸と繁栄を   断乎まもらん民の手に 四 20余万の一念は 諸島くまなく火ともえて   日本復帰貫徹の のろしとなりて天をやく   いざや団結死斗せん 民族危機の秋ぞ今
左:奄美市役所の前にあった奄美市民憲章碑。これといった特徴のない市民憲章

スライド03

名瀬市内の数軒の家には、祝日に国旗個掲げるときに用いる固定用の金具が見受けられた。訪れた日は祝日でなかったため、実際に使用されているのかは不明。

スライド04

市内の各所には自衛隊の募集案内が貼ってあった。特に、真ん中の写真には平成28年度に新しく自衛官候補生や自衛官等になった人々について、実名と役職の紹介がなされていた。

スライド05

市内を走っていた黒猫ヤマトのトラックには津京オリンピックのロゴが。名瀬市内の中学校のフェンスに税金関係のことが書かれていた。

スライド06

左:鹿児島県青少年育成県民会議が設置したもの。この看板においては「かごしまの青少年」と記してあり、実際に平成29年度に奄美市で実施された「郷土に学び・育む青少年運動」の取組では西郷隆盛と関連付けた奄美の歴史を学ばせるなど、鹿児島県の一部として奄美を捉えようという動きがみられる。

鹿児島県青少年育成県民会議 平成 29 年度「郷土に学び・育む青少年運動」強調月間における特色ある取組(最終閲覧日:2018/02/23)
https://www.pref.kagoshima.jp/ab14/kenko-fukushi/kodomo/ikusei/documents/64105_20180209140819-1.pdf

右:奄美博物館の玄関には大きな西郷隆盛の看板が設置されていた。

スライド07

奄美市内を走っていたバスの側面には「We are proud of our tradition この島で生まれ育った誇りを胸に」と記載されていた。奄美の固有性を主張しているように感じた。

スライド08

名瀬市内の「鳥しん」で頂いた鶏飯ラーメン、モズク、そしてニガウリ料理。鶏飯とは、ご飯とスープ、鶏肉等の具材からなる奄美群島の郷土料理。江戸時代には薩摩藩から派遣された役人をもてなすときの食事として使われた。

スライド09

奄美を語るうえで離せないのが大島紬だ。江戸時代の中頃にあらわれた大島紬は献上品として江戸時代に用いられた。明治以降になると、それまでの献上品という存在から商品という存在に変化を遂げる。生産量は、消費の上昇とともに昭和の終盤まで上昇し続けた。現在では「着物離れ」の影響により生産量が減少している。

真ん中の写真は「紬の日」を告知するポスター。市内の成人式における大島紬の着用率を調査するなど大島紬の普及活動に精を出しているようだ。

スライド10

奄美を代表するものの一つが島唄。今でも歌謡大会が開催されるなど人気がある。「親戚ライブ」が開催されるなど、「親戚」に重きが置かれているのも注目点。「鶏飯」「大島紬」「島唄」は奄美の固有性を主張する際に多く利用される三点セット。

スライド11

名瀬市内のスーパーで売られていた商品。ヤギ汁のように関西では珍しい商品が売られていた。貝が「トビンニャ」という現地の言葉で売られていた。いわゆる「観光客向け」でないスーパーの商品だったため、「創造され」ていない文化の一例として考えられるのではないか。

スライド12

奄美で行われている闘牛大会のポスター。闘牛大会は、薩摩藩の支配下での「砂糖地獄」に苦しむ島民にとって数少ない娯楽の一つであった。

スライド13

奄美はハブでも有名だ。ハブはその猛毒で古くから恐れられてきた。現在では血清が発見され死亡することは少なくなったものの、昔は治療法が存在せず噛まれた足を切断するか死ぬかしかなかったようである。ハブは恐れられていた一方で、「森の守り神」として敬われてもいる。ハブのおかげで人間が森を開拓することなく、奄美の生態系を保ち続けることができたというのがその由来だそうだ。
現在では、ハブ酒やアクセサリなどに加工されるなど観光客向けのビジネスによく利用されている。

スライド14

奄美の独自性をアピールするポスターがいくつか見られた。

スライド15

名瀬市内の表札を観察すると一字の苗字が比較的多いことに気が付く。これは1785年に薩摩藩が、一字姓を名乗るよう奄美の人々に命令したことに関係する。命令した背景には、奄美の人々と薩摩の人々を区別したい、奄美が琉球王朝の形式上の支配下にあるという建前を主張したい、という二つの思惑があった。また、名瀬市内で見つけた「池田 上記以外の苗字の住民はいません」とアパートの玄関にわざわざ書いてあったのも興味深い。

スライド16

こういったアイデンティティを植え付け、再生産する場の代表的なものが教育機関である。両端は名瀬市内の小学校と中学校の写真、中央の写真は奄美大島教育会館の写真。

スライド17

こうしたアイデンティティに馴染めない若者の中には、集団になり独自のアイデンティティを形成する者もいる。彼らは路地裏の壁面などに自らの所属する集団を象徴する模様などを落書きをし、新たに形成したアイデンティティを主張しようという動きを取ることがある。

スライド18

宗教を自らの拠所とし、帰属意識を持つ者も一定数いるようだ。


スライド19

名瀬市内を歩いていると、ある区画に集中してシーサーを玄関に飾る家がみられた。これらの家は沖縄からやっていたのだろうか?

スライド20

「やっちゃば」とは奄美の言葉で「八百屋」を意味するそうだ。名瀬市街中心部のスーパーでは「やっちゃば」という言葉を用いていたが、朝仁のスーパーでは「やおや」という言葉を用いていた。この例からも奄美のアイデンティティが均一でないことがわかる。

スライド21

奄美市内の乗用車のナンバープレートを観察すると、奄美ナンバーの車と鹿児島ナンバーの車が大半だった。ここにも鹿児島に帰属意識を持つのか、奄美に帰属意識を持つのかの違いが表れていると考えた。